ワーキングプア

いま流行りの話題らしい。

NHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」

ま、上の記事も全部は読めてないんだけど(長いっす)。一知半解のまま垂れ流すと、個人的には、

能力=才能×努力×方法論

だと思っていて、つまりワーキングプアという時に出てくる人たちは「練習はしてるんだけど練習方法がダメなので、いつまでたってもうまくならないスポーツ選手」みたいなもんだと思ってる。
ちなみに持論だけど、才能というのは基本的に、たいした個人差がない。あるとしても1.5倍とか2倍とか、そのぐらい。努力と方法論は無限に差がつく。ただし努力は積み重ねのものだけど、方法論は気付けば早い。要領の良し悪しとかは、だいたい方法論の問題。ワーキングプアとされてる人たちが、努力を惜しまないのなら、やり方を教えてあげたら済むのではないか。
ただ、やり方つまり方法論を教えるというのは、教える方からすると面倒だし(お節介な好意だしなぜか感謝もされない)、そもそもノウハウそのものだし、さらにいうと最終的には個々人でいちばん良いやり方も違うので自分で見つけろというのもある。
そういうことを、僕は自分が通ったお受験な進学校で学んだ気がする。かなりの割合の同級生が東大だの京大だの行くわけだ。しかしどう見ても、才能が突出した人の集まりというわけではなかった。どっちかというと、方法論がしっかりしている。
世界史の勉強みたいなのでも、闇雲に写経みたいなことをする奴はあまりおらず、一定時間を記憶ペン(赤のペンと緑の下敷き)みたいなツールの吟味に使ったり、記憶術の習得にあてたりしてた。ちなみに僕も記憶術はやった、ちょっと齧るぐらい。そんなノウハウなら町の図書館にでもゴロゴロ転がってるもんなのだ。
ついでにいうと、偏差値が100を超えてる同級生を何人か見た。世間ではそんなことでも「天才」呼ばわりするのだが、断じて彼らは「天才」ではなかった。僕が知るかぎり、方法論がしっかりしてるうえに、勉強量がハンパではなかった。
おそらく人の能力というのはそういうことで、才能以外の要素を見逃すと、自分の才能のなさを恨む以外に道がなくなる。今の学歴社会というか、そういうものが成立しているのは、そこらへんの多くの人の勘違いを利用してできている。世間言うところのエリートとやらで、ちょっと冷静な奴はみんな知ってるはずだ。「自分たちより優秀な人間が、ヤンキーだのフリーターだのにいっぱい居る」ことを。
そして、それら手強いメンツが20を超えて諦観みたいなのを身に付け、発展性のない(かといってそういう仕事が悪いとは思わないけどね)ブルーカラーな仕事について安穏とするのを見て、彼らエリートは安心するのだ。

棋士・羽生善治

さて、天才がどうとか。羽生といえば天下の将棋指しだが、それがこんなことを言うわけだ。野球のイチローは確かに才能豊かだろうが、むしろ才能以上に努力量と方法論が突出してるんだろう。僕はそう思っていて、それが僕の「自分にも無限の可能性がある」という自信というか思い込みとかに繋がっている。
もし僕が野球選手になりたくて、500年ぐらい野球の練習をできるなら、僕もイチローに並べる日がくるかもしれない。おそらくその前に死んでしまうわけだが、それがどうだというのだろうか?明日車に轢かれて死ぬかもしれない僕が、60年後に死ぬかもしれないなんて怯えているのはすごく無意味だ。
だから敢えて、無限に生きれるもんだと思い込んで生きよう、死んだらそれまでよ、「人には無限の可能性があってそれを最大化する」それがKOMPOSITIONの理念なのだ。
さて…そういう実感が持てるのは、僕がいた環境のおかげであり、とくに方法論というのは環境次第かなあと思う。つまり1人1人が環境を選べ、ということだ。その手助けは大いに必要だと思う。これからの、教育に必要な要素はそのあたりなんじゃないか。まあKOMPOSITIONも、その環境の一つということで(笑)

※理屈がグダグダだったので加筆修正しました