KOMPOSITIONの本質2

前回からの続き。KOMPOSITIONの「本質」について書いてるわけで、もうちょっと説明したいなあと。

はてなブックマーク > 平成20年度版 折田先生像について - 京都大学 高等教育研究開発推進機構

ポイントはここらへんのコメントにだいたい表れていると思う。

どの口で言うかw | ついこの間までこれに限らず学内に設置された無許可創作物には撤去しろと圧力かけてたのにいざ人気になったら態度反転ですかw

以前、京大が折田先生像への落書きにたいして否定的、高圧的な対応だったことは事実。折田先生像の歴史は決して、単なる幸福な話ではなかったりする。過去に長々と、ある種の負の歴史がある。銅像撤去はその結末。

ただ、態度反転と言うのはちょっと違うと思う。人気になったから大学が態度を変えたわけではない。

既存の銅像への改造→ゼロから全部制作、が転機だと思う/石垣カフェもそうだけど、既に積み重なっている歴史に配慮して対応を変化させていることを評価すべきだと思うのですよ>手の平返しとか言ってる人

全くそのとおりで、要するにもはや折田先生像折田先生でもなんでもない、というのがミソ。だってどうみても単なる「てんどんまん」でしょ。

実在の折田先生像こんなことになるのは大学として認めるわけにはいかなかった。遺族からも苦情があったと聞くし、故人を模した銅像が勝手に手を加えられるのは故・折田先生への冒涜以外に解釈しようがなかった。

ところが、銅像が撤去されて、こういう自称「折田先生」が登場するとき、わざわざ折田先生を名乗ることはある種の折田先生へのオマージュというか、敬意を示したものととれなくもない。このとき、「銅像いじり」がポジティブなものに転換されるわけだ。

おそらく大学側でも、前々から折田先生像七変化が面白いと思っていた人間は多くて、ただ堂々とそれを語るのは憚られる状況で、銅像撤去のような環境整備(=場づくり)があったから今回の対応が可能になったんだと思う。それで、大学側もある種のコンテンツとして活用するようになった。

毎年のように製作者とコンタクトを取ろうとする当局

というのは、ないと思う。実際のところ、コンタクト取りたければすぐに炙り出せるか、そもそもわかってるか、どちらか。当局が確保しておきたいのは、緩やかに製作者と繋がっていること。なぜならこれは、両者にとってメリットとリスクのある協働作業になっているから、緩い感じでコミュニケーションできるようにはしておきたい。連絡先を完全に把握してしまうと大学側にもいろいろと責任が出てくるから、知ってるけど知らない、ぐらいがちょうどいい。

大学に認められちゃったら終わりだな。/ 昔より今の方が創作物として質が高いな。

そして悩ましいのはここだと思う。僕個人は、後者の意見にも同意はしながら、結論は前者の意見に近いところもあって、正直昔の折田先生像のほうが表現としては面白かったと思う。これとかさ。理屈は言えないけど、勢いとか、感じるものが全く違う。

実は根本は「表現」ということであって、創作物としてのちょっと質が高いからよいわけではないんである。その意味では今の折田先生カウンターカルチャーの要素を失って、パワーダウンした、スポイルされた、とも言えるんだと思う。*1

それを解決するのは、創作物としての質の圧倒的な高さ。いたずら故の面白さが失われたとき、表現を支えるのは質であって、今の折田先生像はその点から見るとまだまだ質が足りない。場づくりが成功すると、ある種の質のデフレが起きるんである。

平成20年度版 折田先生像について

まあとにかくそんなわけで、この文章は全編が確信犯というか、いわゆる大人の論理で、大人の論理がいままで認めてこなかったものを生暖かく見守っている内容である。全編、行間を逆説的に読むのがよい。「この記事を読まれた方で制作者をご存じの方は、ご連絡いただければ幸いです。」→「連絡しなくてよいけど状況こんなですんで、制作者各位、よろしくね。」みたいに。

ACTIVITY >>リーガルウォール

それでまあつまり、KOMPOSITIONのリーガルウォールは今回の件と非常に被るところがある。例えば落書きとアートはどう違うんだという話。結論からいうと、この場合の線引きは作品の内容云々ではなくて、所有者の許可があるかどうかだったりする。

折田先生像を京大が撤去したように、僕らがいちど壁をリセットすることで、そこに新たに描かれるものがアートという扱いになる。同じことをやっても、ポジティブなものとして捉えることが可能になる。これが僕らの場づくりであり、方法論だったりする。

そうやって、ある種の社会のバッファというか「コントロールされているんだかされていないんだか曖昧なギリギリの境界」をコントロールガッチガチの世の中に新しく作っていくことにリーガルウォールの意義があると思う。

桜木町 ON THE WALL

逆にいうと、落書きもアートも、内容は同じでもいい。というか、質のデフレが起きるので、KOMPOSITIONとしては同じかそれ以上に過激であったり質が高くないといけない。個人的には、最終的な課題というか限界はそこにあると思うし、その限界(いたずら故の面白さが失われたときに残る魅力があるのかどうか)への挑戦が必要だとも感じている。

まあとにかく今回は、ネット住人の京大公式見解への反応をみて、嬉しく思ったというわけ。

*1:今、故・折田先生そっくりの像をわざわざつくって、それをペイントするとかが一番のカウンターなんだと思う。ただし、それはそこまでしてアンチ折田・アンチ大学当局ってする意味があるの?ということでもある